あるひのくれがたのことである。ひとりのげにんが、らしょうもんのしたで あまやみをまっていた。 ひろいもんのしたには、このおとこのほかにだれもいない。ただ、ところど ころにぬりのはげた、おおきなまるばしらに、きりぎりすがいっぴきとまって いる。らしょうもんが、すざくおおじにあるいじょうは、このおとこのほかに も、あまやみをするいちめがさやもみえぼしが、もうにさんにんはありそうな ものである。それが、このおとこのほかにはだれもいない。 なぜかというと、このにさんねん、きょうとには、じしんとかつじかぜとか かじとかききんとかいうわざわいがつづしておこった。 そこでらくちゅうのさひきれかたはひとかたどおりではない。きゅうきによる と、ぶつぞうやぶつぐをうちくだいて、そのにがついたり、きんぎんのはくが ついたりしたきを、みちばたにつみかさねて、たきたぎしろにうっていたとい うことである。らくちゅうがそのしまつであるから、らしょうもんのしゅうり などは、もとよりだれもすててかえりみるものがなかった。するとそのあれは てたのをよいことにして、こりがすむ。ぬすびとがすむ。とうとうしまいには、 ひきとりてのないしにんを、このもんへもってきて、すてていくというしゅう かんさえできた。そこで、ひのめがみえなくなると、だれでもきみをわるがっ て、このもんのきんじょへはあしぶみをしないことになってしまったのである。 そのかわりまたからすがどこからか、たくさんあつまってきた。ひるまみる と、そのからすがなんわとなくわをえがいて、たかいしびのまわりをなきなが ら、とびまわっている。ことにもんのうえのそらが、ゆうやけであかくなると きには、それがごまをまいたようにはっきりみえた。からすは、もちろん、も んのうえにあるしにんのにくを、ついばみにくるのである。――もっともきょ うは、こくげんがおそいせいか、いちわもみえない。ただ、ところどころ、く す゛れかかった、そうしてそのくずれめにながいくさのはえたいしだんのう えに、からすのふんが、てんてんとしろくこびりついているのがみえる。げに んはしちだんあるいしだんのいちばんうえのだんに、あらいざらしたこんのあ おのしりをすえて、みぎのほほにできた、おおきなみきびをきにしながら、ぼ んやり、あめのふるのをながめていた。 さくしゃはさっき、「げにんがあまやみをまっていた」とかいた。しかし、 げにんはあめがやんでも、かくべつどうしようというあてはない。ふだんなら 、もちろん、しゅじんのいえへかえるべきはずである。ところがそのしゅじん からは、しごにちまえにひまをだされた。まえにもかいたように、とうじきょ うとのまちはひととおりならずすいびしていた。いまこのげにんが、ながねん 、つかわれていたしゅじんから、ひまをだされたのも、じつはこのすいびのち いさなよはにほかならない。だから「げにんがあまやみをまっていた」という よりも「あめにふりこめられたげにんが、いきどころがなくて、とほうにくれ ていた」というほうが、てきとうである。そのうえ、きょうのそらもようもす くなからず、このへいあんちょうのげにんのせんちめんたりずむにえいきょう した。さるのこくさがりからふりだしたあめは、いまだにあがるけしきがない。 そこで、げにんは、なにをおいてもさしあたりあすのくらしをどうにかしよう として――いわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめ もないかんがえをたどりながら、さっきからすざくおおじにふるあめのおとを、 きくともなくきいていたのである。 あめは、らしょうもんをつつんで、とおくから、ざあっというおとをあつめ てくる。ゆうひはしだいにそらをひくくして、みあげると、もんのやねが、な なめにつきだしたいらかのさきに、おもたくうすぐらいくもをささえている。 どうにもならないことを、どうにかするためには、しゅだんをえらんでいる いとまはない。えらんでいるれば、ついじのしたか、みちばたのつちのうえで うえじにをするばかりである。そうして、このもんのうえへもってきて、いぬ のようにすてられてしまうばかりである。えらばないとすれば――げにんのか んがえは、なんどもおなじみちをていかいしたあげくに、やっとこのきょくし ょへほうちゃくした。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、けっきょ く「すれば」であった。げにんは、しゅだんをえらばないということをこうて いしながらも、この「すれば」のかたをつけるために、とうぜん、そのあとに くるべき「ぬすびとになるよりほかにしかたがない」ということを、せっきょ くてきにこうていするだけの、ゆうきがでずにいたのである。 げにんは、おおきなくさめをして、それから、たいぎそうにたちあがった。 ゆうびえのするきょうとは、もうひおけがほしいほどのさむさである。かぜは もんのはしらとはしらとのあいだを、ゆうやみとともにえんりょなく、ふきぬ ける。にぬりのはしらにとまっていたきりぎりすも、もうどこかへいってしま った。 げにんは、くびをちぢめながら、やまぶきのかざみにかさねた、こんのあお のかたをたかくしてもんのまわりをみまわした。あめかぜのうれえのない、ひ とめにかかるおそれのない、ひとばんらくにねられそうなところがあれば、そ こでともかくも、よるをあかそうとおもったからである。すると、さいわいも んのうえのろうへあがる、はばのひろい、これもにをぬったはしごがめについ た。うえなら、ひとがいたにしても、どうせしにんばかりである。げにんはそ こで、こしにさげたひじりづかのたちがさやばしらないようにきをつけながら 、わらぞうりをはいたあしを、そのはしごのいちばんしたのだんへふみかけた。 それから、なんぷんかののちである。らしょうもんのろうのうえへでる、は ばのひろいはしごのちゅうだんに、ひとりのおとこが、ねこのようにみをちぢ めて、いきをころしながら、うえのようすをうかがっていた。ろうのうえから さすひのひかりが、かすかに、そのおとこのみぎのほほをぬらしている。みじ かいかみのなかに、あかくうみをもったにきびのあるほほである。げにんは、 はじめから、このうえにいるものは、しにんばかりだとたかをくくっていた。 それが、はしごをにさんだんあがってみると、う んではだれかがひをとぼし て、しかもそのひをそここことうごかしているらしい。これは、そのにごった 、きいろいひかりが、すみずみにくものすをかけたてんじょううらに、ゆれな がらうつったので、すぐにそれとしれたのである。このあめのよるに、このら しょうもんのうえで、ひをともしているからは、どうせただのものではない。 げにんは、やもりのようにあしおとをぬすんで、やっときゅうなはしごを、 いちばんうえのだんまではうようにしてのぼりつめた。そうしてからだをでき るだけ、たいらにしながら、ほほをできるだけ、まえへだして、おそるおそる 、ろうのうちをのぞいてみた。 みると、ろうのなかには、うわさにきいたとお、いくつかのしがしが、むぞ うさにすててあるが、ひのひかりのおよぶはんいが、おもったよりせまいので 、かずはいくつともわからない。ただ、おぼろげながら、しれるのは、そのな かにはだかのしがいと、きものをきたしがいとがあるということである。もち ろん、なかにはおんなもおとこもまじっているらしい。そうして、そのしがい はみな、それが、かつて、いきていたにんげんだというじじつさえうたがわれ るほど、つちをこねてつくったにんぎょうのように、くちをあいたりてをのば したりして、ごろごろゆかのうえにころがっていた。しかも、かたとかむねと かのたかくなっているぶぶんに、ぼんやりしたひのひかりをうけて、ひくくな っているぶぶんのかげをいっそうくらくしながら、えいきゅうにおしのごとく だまっていた。 げにんは、それらのふらんしたしゅうきにおもわず、はなをおおった。しか し、そのては、つぎのしゅんかんには、もうはなをおおうことをわすれていた 。あるつよいかんじょうが、ほとんどことごとくこのおとこのきゅうかくをう ばってしまったからだ。 げにんのめは、そのとき、はじめてにのしがいのなかにうずくまっているに んげんをみた。ひわだいろのきものをきた、せのひくい、やせた、しらがあた まのさるのようなろうばである。そのろうばは、みぎのてにひをともしたまつ のきぎれをもって、そのしがいのひとつのかおをのぞきこむようにながめてい た。かみのけのながいところをみると、たぶんおんなのしがいであろう。 げにんは、ろくぶのきょうふとしぶのこうきしんとにうごかされて、ざんじ はいきをするのさえわすれていた。きゅうきのきしゃのかたりをかりれば、「 とうしんのけもふとる」ようにかんじたのである。するとろうばは、まつのき ぎれを、ゆかいたのあいだにさして、それから、いままでながめていたしがい のくびにりょうてをかけると、ちょうど、さるのおやがさるのこのしらみをと るように、そのながいかみのけをいっぽんずつぬきはじめた。かみはてにした がってぬけるらしい。 そのかみのけが、いっぽんずつぬけるのにしたがって、げにんのこころから は、きょうふがすこしずつきえていった。そうして、それとどうじに、このろ うばにたいするはげしいぞうおが、すこしずつうごいてきた。――いや、この ろうばいたいするといっては、ごへいがあるかもいれない。むしろ、あらゆる あくにたいするはんかんが、いっぷんごとにつよさをましてきたのである。こ のとき、だれかがこのげにんに、さっきもんのしたでこのおとこがかんがえて いた、うえじにをするかぬすびとになるかというもんだいを、あらためてもち だしたら、おそらくげにんは、なんのみれんもなく、うえじにをえらんだこと であろう。それほど、このおとこのあくをにくむこころは、ろうばのゆかにさ したまつのきぎれのように、いきおいよくもえあがりだしていたのである。 げにんにはもちろん、なぜろうばがしにんのかみのけをぬくかわからなかっ た。したがって、ごうりてきには、それをぜんあくのいずれにかたづけてよい かしらなかった。しかしげにんにとっては、このあめのよるに、このらしょう もんのうえで、しにんのかみのけをぬくということが、それだけですでにゆる すべからざるあくであった。もちろん、げにんは、さっきまでじぶんが、ぬす びとになるきでいたことなぞは、とうにわすれていたのである。 そこで、げにんは、りょうあしにちからをいれて、いきなり、はしごからう えへとびあがった。そうしてひじりづかのたちにてをかけながら、おおまたに ろうばのまえへあゆみよった。ろうばがおどろいたのはいうまでもない。 ろうばは、ひとめげにんをみると、まるでいしゆみにでもはじかれたように 、とびあがった。 「おのれ、どこへいく。」 げにんは、ろうばがしがいにつまずきながら、あわてふためいてにげようと するゆくてをふさいで、こうののしった。ろうばは、それでもげにんをつきの けていこうとする。げにんはまた、それをいかすまいとして、おしもどす。ふ たりはしがいのなかで、しばらく、むごんのまま、つかみあった。しかししょ うはいは、はじめからわかっている。ぜにんはとうとう、ろうばのうでをつか んで、むりにそこへねじたおした。ちょうど、にわとりのあしのような、ほね とかわばかりのうでである。 「なにをしていた。いえ。いわぬと、これだぞよ。」 げにんは、ろうばをつきはなすと、いきなり、たちのさやをはらって、しろ いはがねのいろをそのめのまえへつきつけた。けれども、ろうばはだまってい る。りょうてをわなわなふるわせて、かたでいきをきりながら、はがねを、め だまがまぶたのそとへでそうになるほど、みひらいて、おしのようにしゅうね くだまっている。これをみると、げにんははじめてめいはくにこのろうばのせ いしが、ぜんぜん、じぶんのいしにしはいされているということをいしきした 。そうしてこのいしきは、いままでけわしくもえていたぞうおのこころを、い つのまにかさましてしまった。あとにのこったのは、ただ、あるしごとをして 、それがえんまんにじょうじゅしたときの、やすらかなとくいとまんぞくがあ るばかりである。そこで、げにんは、ろうばをみおろしながら、すこしこえを やわらげてこういった。 「おれはけびいしのちょうのやくにんなどではない。いましがたこのもんのし たをとおりかかったたびのものだ。だからおまえになわをかけて、どうしよう というようなことはない。ただ、いまじぶんこのもんのうえで、なにをしてい たのだか、それをおれにはなしさえすればいいのだ。」 すると、ろうばはみひらいていためを、いっそうおおきくして、じっとその げにんのかおをみまもった。まぶたのあかくなった、にくしょくじゅうのよう な、するどいめでみたのである。それから、しわで、ほとんど、はなとひとつ になったくちびるを、なにかものでもかんでいるようにうごかした。ほそいの どでとがったのどぼとけのうごいているのがみえる。そのとき、そののどから 、からすのなくようなこえが、あえぎあえぎ、げにんのみみへつたわってきた 。 「このかみをぬいてな、このかみをぬいてな、かずらにしようとおもうたのじ ゃ。」 げにんは、ろうばのこたえがぞんがい、へいぼんなのにしつぼうした。そう してしつぼうするとどうじに、またまえのぞうおが、ひややかなぶべつといっ しょに、こころのなかへはいってきた。すると、そのけしきが、せんぽうへも つうじたのであろう。ろうばは、かたてに、まだしがいのあたまからうばった ながいぬけげをもったなり、ひきのつぶやくようなこえで、くちごもりながら 、こんなことをいった。 「なるほどな、しびとのかみのけをぬくということは、なんぼうわるいことか もしれぬ。じゃが、ここにいるしびとどもは、みな、にのくらいなことを、さ れてもいいにんげんばかりだぞよ。げんざい、わしがいま、かみをぬいたおん ななどはな、へびをしすんばかにずつにきってほしたのを、ほしうおだという て、たてわきのじんへうりにいんだわ。えやみにかかってしななんがら、いま でもうりにいんでいたことであろ。それもよ、このおんなのうるひうおは、あ じがよいというて、たてわきどもが、かかさずさいりょうにかっていたそうな 。わしは、このおんなのしたことがわるいとはおもうていぬ。せねば、うえじ にをするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。されば、いままた、わしい していたこともわるいこととはおもわぬぞよ。これとてもやはりせねば、うえ じにをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたが ないことを、よくしっていたこのおんなは、おおかたわしのすることもおおめ にみてくれるであろ。」 ろうばは、だいたいこんないみのことをいった。 げにんは、たちをさやにおさめて、そのたちのつかをひだりのてでおさえな がら、れいぜんとして、このはなしをきいていた。もちろん、みぎのてでは、 あかくほほにうみをもったおおきなにきびをきにしながら、きいているのであ る。しかし、これをきいているなかに、げにんのこころには、あるゆうきがう まれてきた。それは、さっきもんのしたで、このおとこにはかけていたゆうき である。げにんは、うえじにをするかぬすびとになるかに、まよわなかったば かりではない。そのときのこのおとこのこころもちからいえば、うえじになど ということは、ほとんど、かんがえることさえできないほど、いしきのそとに おいだされていた。 「きっと、そうか。」 ろうばのはなしがおわると、げにんはあざけるようなこえでねんをおした。 そうして、ひとあしまえへでると、ふいにみぎのてをにきびからはなして、ろ うばのえりがみをつかみながら、かみつくようにこういった。 「では、おれがひはぎをしようとうらむまいな。おれもそうしなければ、うえ じにをするからだなのだ。」 げにんは、すばやく、ろうばのきものをはぎとった。それから、あしにしが みつこうとするろうばを、てあらくしがいのうえへけたおした。はしごのくち までは、わずかにごほをかぞえるばかりである。げにんは、はぎとったひわだ いろのきものをわきにかかえて、またたくまにきゅうなはしごをよるのそこへ かけおりた。 しばらく、しんだようにたおれていたろうばが、しがいのなかから、そのは だかのたらだをおこしたのは、それからまもなくのことである。ろうばはつぶ やくような、うめくようなこえをたてながら、まだもえているひのひかりをた よりに、はしごのくちまで、はっていった。そうして、そこから、みじかいし らがをさかさまにして、もんのしたをのぞきこんだ。そとには、ただ、こくと うとうたるよるがあるばかりである。 げにんのゆくえは、だれもしらない。 ---------------------------------------------------------------------- 青空文庫より。 ---------------------------------------------------------------------- 底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集1』    1986(昭和61)年9月24日第1刷発行    1997(平成9)年4月15日第14刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集    1971(昭和46)年3月〜11月に刊行 入力:平山誠、野口英司 校正:もりみつじゅんじ 1997年10月29日公開 1999年7月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです